| 再び早実―惜しかったあの一戦 |
| 黒岩 一紘(新10回生) |
昭和31年7月、私が2年生の時,我が新宿高校野球部は、夏の甲子園大会都予選4回戦に駒を進めていました。当時の東京代表は1校だけで、4回戦とは120校中のベスト16という事です。4回戦の対戦相手の早実は、3番徳武(後の国鉄の4番打者)、4番醍醐(後のロッテの主砲)、5番王貞治の強力打線で、それまですべてコールド勝ち、すでに予選の段階から甲子園の優勝候補に挙げられていました。今で云えば、清原、桑田のPL学園以上の強さでした。
試合が始まるとすぐに、我が方に相手のエラーがらみで1点が入り、鋤柄投手の好投で、6回まで早実が無得点という展開になりました。今までコールドで勝ち続けてきた早実にとっては、6回まで1点リードされているのですから、大慌ての様子でした。6回にヒットを打って2塁に来た相手の走者が、牽制に入ったショートの私に聞こえるように云いました。
「あのピッチャーの蝶々が止まるような球は、我々練習したことが無いんで全く打てないわ。だけど最後に勝てばいいんだろ、勝てば」
7回に入って、疲れの見えてきた鋤柄投手を2年生のエース笹本が救援しました。彼は、素晴らしく球の速い投手で、徳武、醍醐と簡単に打ち取り、これならうまくすると勝てるんじゃないかと期待しているところへ5番王が左打席に入りました。1球目の直球をぐんと振るとグシャと音がしてショートの私の頭上へのライナーでした。思わず飛び上がると球は、ぐんぐん伸びて昔の広い神宮のレフトの壁に当たりました。当時左バッターが流すのは、軽く当ててレフト前に落とすのが普通でした。それを振り切ってホームランよりもすごい当たりを飛ばしたのです。ゾーと寒気がするような気がしました。よく世間では、王選手を努力の人といいますが、彼は生まれながらの天才だと思います。余談ですが、後年彼が一本足ではなく二本足で高校時代の左右に打つバッティングを続けていたら、きっと4割バッターで、ホームランは1,000本を超えていたと今でも思っています。
王に打たれてからは、何だかカンカンとつるべ打ちのように打たれ得点され、次の回には醍醐、徳武にも打たれたような気がします。そして結果は6対1で終わりました。しかし、都大会の後で優勝した早実の宮井監督は、一番の苦戦は新宿戦だったと語っていました。
試合が終わったあと、我々は自分ながらもよくやったとお互いに思い、何となくうきうきしていました。ところが、監督の宮本さんが全員集まれと云いました。宮本さんは、当時東都大学リーグの学習院のエースで、我々にとってはおっかない監督でした。開口一番、「お前らは敗けたんだぞ。敗けてニヤニヤするとは何事だ。早実と云えども、勝てるまで練習しろ」と云われました。
それは無理な話で、私は今でも良くやったし、本当に惜しい一戦だったと思っている次第です。
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| (「朝陽」創立70周年記念特集号−1992年10月 より) |
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