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野球部奮戦記

新宿高校で一周り
福島 隆(昭和42〜54 野球部顧問)
 私が新宿高校に赴任したのは、昭和42年、志賀先生の後任としてであった。それから12年間、即ち一周りを過したことになる。

 初めに担当したクラブは化学部で、当時范君が19世紀のドイツの文献をもとにピロガロールの化学発光の実験、岩間君が相の転相と、興味深い実験を行なっていた。ちょうど私が顧問をしていたある会社で、染料や顔料の分散を行なうのに界面活性剤について簡単な本がなく私が社内講習のテキストを作ったが、実験する機会もなかった。それが逆に岩間君の実験で確認が取れて私自身としても大変助かった。范君の実験はその後、江畠(現姓高谷)さんが受け継ぎ、分光光度計の受光部分とXYレコーダーを利用し炭酸ナトリウムや過酸化水素水の量を変えて、定量的に発光量を測定するなど、いずれも高校生としてはかなり高度の研究をしていた事が印象深かった。次の世代には、当時脚光を浴び始めていた液晶の実験を行ないたいと申し出があったが、コレステリック液晶などでホルモン異常を起こすと大変であるから中止させてしまった。その後野球部の方に熱心になり、化学部の面倒をあまり見ず申し訳ないことをしたと思っている。

 私は、終戦後のドサクサにまぎれて東都大学の野球リーグ戦に出場した経験もあったので、硬式野球部の顧問を望んで希望し、3年目から面倒をみることになった。当時野球部には3年生小高君、松本君など3名、2年生は横田君、山田君、井爪君など数名しかおらず、初めて練習を見に行ったときはまるで野球の練習とは言えず驚いたが、ただ横田君の元気さが目についた。横田君は卒業後現在に至るまで良く後輩の面倒を見てくれているのには感謝している。次の年には30名以上の入部者があり、彼らが3年生の時には東京都大会5回戦まで進出する事が出来た。ここでレギュラー7名が卒業し、秋の新人戦は駄目だろうと思っていたところ、現在の野球部監督の鈴木先生が投手として活躍し、翌年はシード校になったのには私も驚いた。

 ちょうど鈴木先生が2年の時、それまでの合宿場所は毎年変わっていたのだが、当時桐生工高の監督で群馬県高野連副会長の阿部精一先生のお世話で、新築されたばかりの桐生市営球場が借りられ、また、桐生一の金木屋旅館に合宿できるようになった。現在、球場や旅館は変わったようだが、桐生での合宿は続けられている。

 話はだいぶ飛ぶが、高山君を擁して都立の星と騒がれベストエイトに進んだ時、当時の3年生五十畑君が投手でシード校となっていたので、高山君たちの1年生は練習試合等の最中も試合とは別に練習させていた。当時の監督だった27回生で野球センス抜群の松永君の指導の賜物であり、その後の新宿高校の野球を変えた功労者と言っていいだろう。

 最後になったが、私が顧問になったときの監督奥沢君、高橋君、練習試合には必ず監督をしてくれた辻君、岡部君、私の顧問の後任を努めて下さった新宿高校の大先輩である佐藤先生、そして、ただ一人の28回生マネージャーとして活躍し、未だに独身で野球部の面倒を良く見、OBとの連絡、会計などに活躍してくれている三矢さんたちにはいたく感謝している。

 このような先輩達に恵まれ、その絆が強い野球部は非常に幸福であり、今後の活躍を期待している。と同時に私にとって新宿高校における一周りとは何であったのか、と自問しているこの頃である。

(「朝陽」創立70周年記念特集号−1992年10月 より)


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