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野球部奮戦記

苦労した練習場探し
三橋 宏(新7回生)
 私は昭和30年卒なので、昭和27年〜29年の3シーズン硬式野球に熱中し、わが青春の1ページを飾ったと思っている。その頃の新宿高校といえば、日比谷、戸山などとともに指折りの進学校であった。先生、生徒とも一流大学への受験、進学という共通認識があるから、3年生にもなって野球の球を追いかけている我々は、先生からも周りの生徒からも、レールを外れた連中と見られていたかもしれない。私が3年生の時、レギュラー9人の中、6人がレール外れであった。3年の4月、担任の故杉浦先生に社会科教官室に呼ばれ、来年の入試をどう考えているのだ、と怒られた憶えがある。他の5人も同じだったと思う。先生は我々の事を大変心配して下さったのである。6人の中で3人はその後大学でも野球部で活躍した。山本君は学習院(当時は東都大学の一部)、笹川君、滝川君は東大でプレーした。滝川君は医学部と野球部を両立させ、今は豊橋で整形外科の病院を経営し、私自身時々お世話になっている。

当時東京大会は、東西に分かれておらず、東京代表は1校であった。120校近くの参加があり、2回勝つと32校に入ることができ、3回戦以降はすべての試合が神宮球場で行なわれた。昭和27、28年はくじ運で1回戦から神宮で試合を行なったがいずれも敗退したのは残念だった。27年には後に学習院のエースとなった宮本さん、28年には剛速球の長谷川さんがおり、チームとしてはかなりの力を有していながらの1回戦敗退なので、なおさらのことであった。

 29年の最後のシーズンは、幸いに1、2回戦を勝ち神宮に駒を進めたが、このときも神宮での勝利は、8回2死後に逆転され、逃してしまった。敗れたのは残念であったが、もっと残念だったのはこの年圧倒的強さを誇った早実と試合ができなかったことである。同じブロックなので是非当たってみたかった。東京代表となった早実は、甲子園でも畑(後に西鉄ライオンズで活躍)投手を擁する小倉高を破り、予想以上に勝ち進んだ。このときの早実のメンバーは大学卒後も含めれば7人がプロ入りし、その中には安打製造機と呼ばれた榎本、早大−国鉄で活躍した徳武、大毎の捕手で活躍した醍醐がいたのだから、東京では敵なしであった。

 当時の硬式野球部の練習はひどかった。硬球は危険との事で校内の練習は禁止されていた。近く(現在のNSビル辺り?)の東京生命のグラウンドを借りたり、遠く多摩川の川原のグラウンドまで行き、真暗になるまで練習が続いた。硬式野球部が校内で練習ができなかったのは、その数年前に起きた不幸なやり投げ事件のためだったと思われる。新宿御苑までとどいたやりが、男の子の胸にささった事件である。その後、第2グラウンド(今の校舎があるグラウンド)での練習が許可された。ホームプレートが今の校門側でセンター方向が御苑なので、センター方向の良い当りはすぐに御苑に飛び込んだ。確かに危険だったわけである。御苑にはいつもアベックが何組かおり、塀を登って球を拾いに行った連中がアベックをながめてなかなかグラウンドに戻ってこない事もあり、練習は度々中断した。また、ファールボールが近くの住宅街に入ると、この辺りは大変ガラの悪い所で、こわくて球を取りに行けなかった憶えがある。

 今でも野球部の活躍は気になる。夏の東東京大会はよく見に行くが、同年代の人にあまり会えないのが残念である。

(「朝陽」創立70周年記念特集号−1992年10月 より)


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