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野球部奮戦記

“都立の星”かく戦えり!
佐藤 喜一(昭和54〜62 野球部顧問)
○ “星消ゆ”
 54年7月27日、厚い雲に覆われた神宮球場 ― むし暑い昼下がり、全国高等学校野球選手権大会、東東京地区予選準々決勝の熱闘がくりひろげられていた。
 東東京地区では、都立高校はすべて消えている。残るはわが新宿チームだけ。
 2回戦で好敵手都立戸山に9対7と逆転勝ちし、3回戦は東京実業に8対0で楽勝したものの、前日の4回戦では岩倉に苦戦し、延長14回の末3対2で辛勝し、準々決勝(ベスト8)に進出したのである。
 相手チームは関東一高。前日204球投げぬいた左腕の高山投手は、この日もよく投げていた。2回裏に1点を献上したが、4回までヒット2本、四球1個の好投をつづけた。これに答えるように、5回表2死後、2番谷がライト前にヒットし、続く田中のセンターオーバーの二塁打で生還、1対1の同点とした。6回はノーアウトで、7回は1死後で出塁、8回は2死1、2塁、と押し気味に試合を展開したが、いずれも決定打なし。
 9回の裏 ― 関東一は打順よくトップから。矢島が初球をレフト前にたたく。2番のバントで2進、3番はセンターライナーで2死。ここで4番の田村がバッターボックスに入った。ファウル、ボール、ボール、ボールでカウントは1−3。そこで岡本監督はキャッチャー寺嶋に何事か指示した。1塁が空いている。スタンドで声をからして応援していた在校生、卒業生、ともに「敬遠か?」と思う。だが、第5球は内角にストレートが入った。田村はすかさずレフト線にライナーをはじき返した――。時刻は1時55分。高山の投げた、92球目であった。
   翌日の各新聞は、新宿の健闘を伝えた。「敗れて悔いなし 新宿高」(毎日)、「無念 “都立の星”消ゆ」(朝日)とたたえていた。
 大きな見出しをみつめながら、甲子園への道は、確かに遠く、けわしい、という実感を、私はしみじみと味わっていた。

○ 52年夏・・・・・
 けなげに戦ったこのチームは、トップバッターの柴を除くと、全員3年生である。彼らは52年4月に入学した。
 1年生が本格的に練習に取り組むのは、夏休みの合宿からである。わが新宿チームは群馬県桐生市本町の金木屋旅館に宿泊、桐生市営球場と足利市営球場を借用して、トレーニングにはげむ。
 52年夏から、かれらは合宿に参加した。最初のミーティングで私はこう言った。「絶対に部をやめるな。苦しい事があっても、とにかく頑張れ。そして新1年が一体となって、いいチームを作れ。」
 というのは、その1年上は選手の層が薄く、次の年にはすぐにかれらを起用しなければならないこと、また一挙に15名が加入し、かなりレベルの高い生徒がそろっているのはめずらしいこと、であったからだ。
 所で運の悪い事に、52年の8月は天候に恵まれず、5泊6日の合宿中ほとんどが雨にたたられて、十分な練習が出来なかった。スタンドの下で素振りと柔軟体操に明け暮れる毎日、雨が上がってもグラウンドはすぐに使えず、球場の周囲を走るか、芝生の上でのトスバッティングぐらい。おまけにエース高山は肩をこわしていて、球をにぎれる状態ではなかった。
 印象に残ったのは、この高山が「球をにぎれないなら走ってろ」と言われると、ただ黙々と走っていたことである。球場の周囲を、10周や20周ではない。コーチがやめろと言うのを忘れて、彼はどうしたのかと気がついてみたら、まだ走りつづけていた。
 高山の執念、そして逞しい選手達の意欲が、そこによく象徴されていたように思う。

○ 53年夏から秋へ
 53年の夏の大会はクジ運がわるく、最初から強豪二松学舎とぶつかった。その時の投手は54年ではマスクをかぶった寺嶋で、球質は重い上、コントロールも良く、並の相手ならかなりいけると思っていたが、なにせ相手がわるく、早大球場で惨敗してしまった。
 合宿で戦力を分析、新チーム作りに努力した結果が54年の布陣である。
 投手 高山、捕手 寺嶋、1塁手 田中、2塁手 鶴岡、3塁手 金田、遊撃手 柴、外野は左から、長崎、小田原、谷 ― 取材に来たある新聞の記者が、「オーダーの名前を見ると、プロみたいですね。」と言ったものだ。
 このメンバーの初試合の相手は、合宿先の桐生の私立校で、群馬県でもかなり名の通った樹徳学園であった。桐生の町はずれの、山を切り開いた樹徳のグランドで、暑い日差しの中で、ダブルヘッダーを組んだ。
 第1試合、初回に高山の2塁打で1点を先取したが、安打2本の好投にもかかわらず四球やエラーもからんで、4点をとられて敗けた。つづく第2試合には柴に投げさせて、7対2で敗けた。
 帰京して、夏休み中に安田学園と8対8で引き分け。攻玉社に7対4で敗戦。8月も30日になって、新設の都立篠崎と対戦し13対4で快勝、やっと片目が開いたのである。高山は10安打されたが、四球は2個におさえ、8回からはマウンドを柴にゆずって初の勝利投手となった。打線も快調で、田中、高山の3塁打、柴、金田の2塁打を含む14安打は、秋の新人戦への期待を大きくした。
 9月になって、城西大城西に3対2で負けたが、国士舘に6対5と勝ち、拓大一高に10対2で負けたが,都大森に20対0で大勝、このゲームでは田中、寺嶋にホームランが出て、意気揚々と新人戦に乗り込んだ。以下、新人戦は、
第1回戦(9月15日)
新宿 14―0 成立 (7回コールド)
第2回戦(9月21日)
新宿 10―0 都鷺宮(6回コールド)
準決勝(10月2日)
新宿 7−0 大成(7回コールド)
と順調に戦い、決勝に進出した。
 わが新宿のブロックは、その夏都立の星とさわがれ、西東京大会で決勝進出を果たした都立東大和高校のグランドであったから、当然東大和とぶつかることになった。
 高山は大会無失点、打棒も大いに振るっていたので、東大和との好試合が期待されたのだったが、先発高山の乱調、バックのミスも重なり、初回に8点、2回にも投手リレーが裏目に出て10点、なんと3回で18対0のコールドゲームとなってしまった。
 しかし、ブロック2位という事で、54年春の東京都大会の出場権を獲得する。

○ 春 ― 燃える新宿ナイン
 54年4月1日、春季大会の第1回戦は、駒沢球場で八王子高校と対戦した。八王子もかなり力のあるチーム。苦戦が予想された。
2回裏、新宿は長崎の3塁打を足がかりに、相手のエラーに乗じて3点をもぎとった。しかし、高山の出来がもう一つである。毎回ランナーが塁上に出ていた八王子は、4回1点をとる。4回以降はチャンスらしいチャンスのない新宿、それに対して八王子は毎回スコアリングポジションにランナーがいる。なんとなく妙なムードで、いつ逆転されるのか冷汗ものであったが、高山が要所々々で三振を取ったり、野手の好守備などあって、3対1でどうにか勝つことができた。四死球11個、残塁なんと14。まさに薄氷を踏む思いであった。
 しかしこの試合での粘りは、このチームの成長に実に有効に作用した。
 2回戦で明大明治と対戦、6回まで4対4と追われたが、8回に一挙4点を入れ10対5で振り切ったのも、次の3回戦で日大桜ヶ丘に勝ち抜いたのも、“粘り”の成果であろう。
 日大桜ヶ丘との対戦は、神宮第二球場でおこなわれた。9回表まで新宿は3対0で勝って
いた。高山は8回まで5安打を許しながらも、無四球の好投。4回高山のセンター前ヒットを長崎の2塁打で返して1点、8回には、寺嶋、田中、長崎の3長短打と相手のミスに乗じて2点、9回裏をおさえ切れば楽勝と思われる場面である。
 ところが、9回裏1死後高山がつかまった。初四球に続いて3連打が飛び出し、たちまちにして同点。1死ながら2塁にランナーがいる。気落ちした新宿ナイン。歓喜する桜ヶ丘応援団。もはや勝運に見放されたかと、観念した。が、高山は力投し次の6、7番の打者をそれぞれ三振とセカンドフライに打ちとった。
 延長10回表、1死後田中がライト線にあざやかな2塁打、続く長崎のセンター前ヒットで1、3塁。2死後8番の金田がレフトに2塁打を放って2者生還、その裏は高山が3人でおさえて5対3で勝ったのである。
 堂々とした、実にすばらしい試合であった。どこにこれだけの力が潜んでいたかと思わせるような試合っぷりであった。それまでの新宿チームなら、ピンチに立たされると実にもろく崩れ去ることが多かった。だが、今は違う。なにかしら張り詰めた力強い糸が彼等の動きをコントロールし、ピンチにはちゃんと守り、チャンスは必ずものにするという、目に見えぬ気迫と連帯感が、試合をすばらしいものに盛り上げている、ということをしみじみと感じさせる好ゲームであった。
 “進学名門校「新宿高」ベスト4へ早実と激突!”4月21日のサンケイ・スポーツ紙はこんな見出しで、次のように書いた。
 「「早実なにするものぞ」と都立新宿ナインが燃えている。春の高校野球東京大会は、きょう21日、準々決勝を迎えるが昨年夏、西東京予選で決勝まで進み、“都立パワー”を見せつけた東大和に続き、あの進学校で名高い新宿高校が快進撃。部史上初のベスト8進出、いよいよ7年ぶりに古豪、早実に挑戦 ― 」
 この試合も気迫のこもった好い試合だった。5回裏に1点献上したものの、8回に田中の3塁打を足がかりに1点をもぎとり、1対1とした。8回までヒット7本を打たれた高山も、四球はわずか1個。緊迫した試合展開でスタンドを沸かせた。が、結局9回に1点を取られて惜敗した。
 試合前、早実の和田監督は、「最近の都立は強いですからね」と語っていたが、そのとおり、部員70人、武蔵関に専用グランドを持ち、52、53年と連続甲子園出場をはたしている“横綱”と渡りあって互角に戦ったのは、貴重な財産であった。

○ 夏にむかって
 春の大会後、夏の大会までに、練習試合を15ゲーム消化した。専用のグラウンドを持たないチームの悲しさで、15ゲーム中、自校のグランドで開催した試合は、わずか5。吹きっさらしの河川敷の球場、また多摩地区の山の中の学校へと、出かけていった。その間8勝5敗2引分け、の成績をおさめて、着々と力をつけていった。
 特に、城西大付城西高(54年夏の東東京代表)と対戦、4対3で、また日体大荏原高(東東京決勝戦進出)に、3対2で、それぞれ敗戦にはなったが、好ゲームを展開し、かなりの自信をつけた。
 春以来のこうした活動を、読売新聞の社会部がとりあげた。題して「熱球の原点」 ― 6月21日から7月2日まで9回にわたって連載され、ユニークな紙面であった。“なぜ高校野球なのか”というサブタイトルで、第1回は「クールな闘志」(勉強と両立させ幅広い人間を目指す)ことをとりあげ、過熱気味な甲子園と、いわゆる野球学校をくたばれと批判した。
 2回以降、「伝統の一打入魂 ― 5振り野球の精神」「主将は背番号10、3塁コーチ」「心は選手といっしょ − 女子マネージャーの生活と意見」「進学だって負けないエース高山」「ゼロからの出発 ― ある補欠選手を追って」とつづき、部員たちの生態を浮き彫りにした。
 その記事でとりあげられた背番号10番のキャプテンとは、宇治弘晃君である。彼は夏の大会でも、3塁コーチャーズボックスに立っただけだったが、主将としての統率力、若者らしい闘志は抜群であった。部員のだれもが、「キャプテンを中心としたチームワーク」が新宿の強さであると語った。彼が大声をはりあげ、ファイトをむき出しにして練習にとりくむとき、選手達は皆、燃えた。夏の大会を前にして、多くの予想が「高山のひきいるワンマンチーム」と我が新宿を評したが、高山だけでなく、このキャプテンの存在が、いぶし銀のように光っていたことを忘れてはなるまい。

○ 気迫とさわやかさ
 さて、高校野球が単なる技術だけでない事を見せつけたのが、夏の大会ではじめてぶつかった、都立戸山高(旧府立四中)である。打倒新宿に燃える戸山は新宿に勝つため、ただそれだけを目ざしたかのように、体当たりでぶつかって来たのである。
 新チームになってから、対戸山戦は18対11、14対6、15対5で、それぞれ勝っていた。それだけに戸山は夏の大会で雪辱を、と思っていたようだ。とにかく闘志をむき出しにしてやって来た。これは実に恐ろしい。4回までに高山の外角球をうまくミートし、8安打で6点、こちらは2塁打1本でわずかに1点。
 その日は7月20日、学校では終業式 ― 生徒に通知表を渡す日である。生徒の方は坂本右先生にお願いして、生徒の応援のまったくない駒沢球場で、まさに心臓と胃が入れかわってしまいそうな気分。こちらの攻撃のときなどは落ちつかず、ベンチから出て一発を期待したものだった。
 6回に4点、8回に4点を入れて9対6と逆転して、はじめて一服しようという気持ちになった。ベンチ脇にでてタバコに火をつけると読売の記者が「いただきですね」と近づいて来た。そのとき自分でもはじめて笑みが出た。
選手達も終業式を公欠にして、球場に来ており、負ければ丸坊主の試合であった。それだけに後半はこちらの気迫が、戸山を圧倒した。気迫と気迫の3時間半 ― 監督の岡本君は、試合後「相手が気迫でくるなら、こちらも気迫でぶつかる。負けてはいられませんね。」とインタビューに応じていたが、まったくそのとおりのゲームであった。
その気迫は4回戦の対岩倉の試合にもあらわれていた。延長14回まで、岩倉は3人の投手を使い190球をまかなった。それに対して、高山は204球を投げぬいた。点はなかなか取れなかったが、いたるところにファインプレーもあって、この熱闘を支えたのである。
 この気力が次の試合、つまり敗戦となった関東一高との準々決勝にも持ちこまれ、とにかく押し気味に試合をすすめたのであった。惜しくも9回の裏にサヨナラ負けを喫したのであるが、この結果は我がチームの気迫と体力の限界を示したものといえよう。
 高山のあの最後の投球 ― 試合後、多くの人々から指摘された「あそこはやはり敬遠すべきだったのでは?」と。昨年の日本シリーズ第7戦9回裏(広島の江夏が近鉄の猛反撃をかわしてV1を達成したとき)のように勝負をぎりぎりまで伸ばしてみるのも手であったのではないか、と思う。だが、私は、高山が投げ、そして打たれて負けた、それでよかったのだと、思っている、作戦の立て方はいろいろあるだろう。しかしこれが高校野球なのだ、と考える。
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 試合後のミーティングで、私は言った。「実にいい負け方だった」と。負けていいもわるいもあるわけはないのだが。「勝つこと、勝たねばならぬことは誰もが教えてくれる。だが、さわやかに負けること、美しく滅びることは、教えられてわかるものじゃないんだ。」
 そのとき、私の脳裏にはたしかにこんな文章の一説があった ― そこには刀折れ、矢尽きた感があった。力の限り戦って来、最後に運命に従順なものの姿であった。そういうものだけが持つ静けささえあった。 ― (島木健作「赤蛙」)
 だから、かれらは泣いたりしなかった。折あしく降り出した夏の雨に打たれながらも、さわやかにグランドを去った。そして、次の目標に向かって、すぐにたたかいを始めた。そこで、かれらはまた「何か」をつかむであろう。
 長い人生の中で、困難に立ちむかっていくファイトと情熱。それが必ず人間的な飛躍と成長に結びつくのだ、ということを私はかれらとともに信じたいと思う。

〔追記〕
 新宿高校の野球部の歴史の中で、特に記さなければならないことは、前顧問の福島隆先生である。かつて硬式野球をした経験のある先生は、昭和43年着任以来、実によく面倒をみておられました。運動部の顧問、というと技術指導はできず、ただ形式的にお役目をはたしている教師が多いのですが、先生は土曜、日曜を返上して指導しておられました。はじめて球を握る生徒が、なんとか試合に出られるようになるといった、高校のクラブ活動としては望ましい形に仕立て上げたのも、先生の大きな功績です。
 福島先生が、都立豊島高の教頭として去られた後、生来野球が好きで5年程前から先生のお手伝いをしていた私が顧問を引き受けたのですが、54年の成果は、福島野球が見事に結実したのだと言ってよいでしょう。紙面を借りてここで厚く御礼申し上げます。

 副会長の花沢紀子さん(新21回)は、これもまた生来野球好きで、「通」でいらっしゃる。彼女は私のためにメガホンを贈ってくれ、試合の経過に実に熱心な声援を送ってくれました。この花沢さんが、同窓会の事務室でこんな事を言ったのです。
「朝陽同窓生の中で総理大臣になる人が出るのと、新宿が甲子園に行くのと、どちらかが先でしょうかね。」と。
 これは母校野球部と同窓生に対する大変痛快なる皮肉ではないかと思いました。どんなものでしょうか?私はそのときこんな事を言いました。もちろん去年の事です。「総理大臣の方の最短距離は、共産党が天下を取ったときだね。甲子園の方は、ひょっとしたら今年にでも・・・」
 でもこれは、遠い夢のような話です。ですが、とにかく野球部の選手も、卒業生も(もちろん私を含めて)甲子園の夢は、決して捨ててはおりません。
 暑い中を球場までお出かけくださった卒業生のみなさん、どうもありがとうございました。監督の文章にもあるように、“三無の境遇”にある母校の野球部にこれからもお力添えくださるよう、切にお願いする次第です。

(「朝陽」29号−1980年5月より)


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